大学を卒業し鹿肉で起業した24歳のあかりんご。ひょんなことから北海道の鹿解体施設で鹿を捌きまくることになり、大阪から単身で北海道へ。彼女は一体、北海道で何を思う…。
解体を始めて早3週間。包丁で手を切ったり、鹿の網脂を部屋に飾ったりと、解体を通して色々な体験をしたあかりんごは、ついに人生で最大級の鹿と出会う。
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112kgのオスと1年分の肉
解体施設へ入って、早3週間近くが経過していた。
仕事の流れも分かってきて、今は先生に指示を受けずとも判断できることが増えてきた。
例えば、鹿の搬入前に行うべき準備。
捌いた肉を入れるケースや、もも肉を引っ掛けるフック、肉を詰めるダンボール。
これらは事前に用意しておくと、解体作業がスムーズだ。
一連の流れがルーティンとなった今、それを丁寧にこなすことに心地よさを感じた。
丁寧な仕事、丁寧な暮らし…♪
そんないつもの朝。
わたしはまたしても、自然に対してルーティンなど無いと痛感させられる。
朝5時半、解体をしていると、トラックが後ろ向きでとまる。
トラックの側板を外して現れたのは、巨大な鹿だった。
以前90kg級の鹿を捌いたが、全くの別物だった。
遠近感がおかしくなりそうだ。
で、でか…!!
普段は鹿の足を引っ張って移動させるが、今回は引いてもビクともしない。
仕方なく、ウインチを足に引っ掛けて動かす。
ボテッ、ボテッ!
トラックとの摩擦音が、鹿の重さを物語る。
足を吊り上げ重さを計ろうとするも、鹿の頭が床についてしまう。
そんなことは今までなかった。
規格外に、鹿が大きいということだ。
ウインチを引っ掛ける場所を変えて計ると…
112kg!?!?!?
体重計には122の数字がチラチラ光っている。
単純計算で、鹿の体重の1/3は肉である。
だからこの鹿から、36kgのお肉が取れる。
これは、日本人が1年に食べる肉の量とほぼ同じだ。
「こんな大きい鹿、見たことないでしょ」
猟師さんは笑いながら言った。
見たことないです、捌きたいです!
この一言が、のちに2時間の葛藤につながるとは、あかりんごは知らないのだった。
冬のイノシシに3時間、デカ鹿に1時間
鹿を奥の解体場へ移動させるにも、ウインチを使う。
ギッ、ギギッ、ギギギッ
ウインチ越しに、鹿の重さが手に伝わってくる。
なんとか手先は外せたものの、足を外す時は大変だ。
この作業の途中、鹿が倒れている向きを左右に変えるのだが、これが一苦労。
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普段通りのやり方では、全く動かない。
智香の体の下に足を入れながら、てこの原理で少しずつ鹿の向きを変えていく。
一度向きを変えただけで、腰が痛い。
ウインチで足を吊り上げ、皮を剥く。
わたしは、少しだけ鹿の足先にナイフを入れる。
こ、これは……
し、白い!!!!!
そこにあるのは普段通りの筋肉膜でない。
真っ白な、脂だったのだ。
これでは引っ張っても皮は剥けない。
少しずつ引っ張りながら徐々にナイフを入れていくしかない。
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冬場のイノシシを捌くのに、最大2〜3時間かかるという話をよく聞く。
これのことか。
脂があればあるほど、捌くのに時間がかかかるのだ。
左手でずっと皮を引っ張っているので、左手の力も徐々になくなってきた。
だんだんと息切れしてくる。
腕に乳酸が溜まる。
もう1時間近くが経過している。
これは大変だ。
やりますと言った、自分を憎みたい。
規格外の内臓と三次元の「獣害」
次に内臓を開ける。
胃袋を取り出して、その大きさにびっくりした。
……
わたし、入れるやん。
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きゅっと縮こまったら、すっぽりわたしが入る。
そんな大きさだった。
そしてその胃袋の中には、草がいっぱいに詰め込まれている。
これらは、近くにある馬の放牧場の牧草である可能性が高い。
その鹿の口の中から、クローバーの草が出てきたからだ。
獣害被害。
二次元的な薄いペラっとした言葉が、いきなり質量と体積を持ってわたしの前に現れた。
これを、毎日か。
当然、牧場主にとったら馬を育てているのか、鹿を育てているのか分からないだろう。
鹿のフェロモンにドキドキ
内臓を取り出し、あとはもも肉だけになった。
先生に手伝ってもらい、何とかまな板まで移動させることができた。
バチーーーーーーーーーーン!!!
もも肉をまな板に乗せただけで、柔道の受け身のような音が解体所に響いた。
右の足を腰にひっかけ、左の足を左手でもって筋肉をぴんと張りながら、股関節ともも肉の間にナイフを入れていく。
うん、ナイフはいんない。
構造は同じであるが、大きいが故に、切っても切っても骨に当たらない。
骨を見つけない限りは、骨に沿ってナイフを入れることもできない。
分厚い脂と硬い筋肉。
この2つが仁王立ちしていて、なかなか奥の骨に辿り着けない。
何度もナイフを入れてしまい、肉に傷がついてしまう。
アーン、ごめんなさい…。
そんな時、わたしはこの解体所で初めてのにおいを感じた。
全く嫌なものではない。
例えることができない、不思議な香り。
むしろ胸がドキドキするような。
何この香り!?
おそらく、オスに特有のフェロモンだ。
これが一般的にはケモノ臭と言われるのかもしれない。
家畜でも、もちろんオスはいる。
しかしオスのホルモンは肉を硬くするなどの作用があるため、幼い時に去勢をするのだ。
よってオスでも、オスのフェロモンをまとった個体には会ったことがなかった。
周りの男性に聞いても、そんな香りは感じたことがないそうだ。
だが、わたしは相変わらずドキドキする。
なんだこの気持ちは。
そうか、やはり。
やはりわたしは、人間のメスなのだ。
女性にしか感じないオスのフェロモンなのかもしれない。
これは面白い。
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新たな発見に興奮しつつも、もも肉から骨を外す作業は依然として苦戦を強いられている。
やっとのことで外した骨には、肉がまだたっぷり付いていた。
キマリが悪い気持ちになったが、初めてので仕方ない。
フックにもも肉をかけて冷蔵庫に運ぼうとすると…
ブルンッ!!!
突然、腕に激しい負担を感じる。
体ごと持っていかれそうになり、必死に踏ん張った。
もも肉が、重すぎたのだ。
急いで両手でもも肉を持ち、一歩ずつ前に進む。
最大限に筋肉を使っているので、汗がにじんできた。
冷蔵庫に入り、中のラックに肉をかけて、わたしはふと立ち止まる。
なんだかとても、大切な感覚を体感した気がしたのだ。
向き合うこと、溶け合うこと。
北海道へ来て、鹿を捌く。
その行為によって、鹿とわたしとの境界線は、じっくり時間をかけて溶ける。
氷が少しずつ外気温と溶け合うように、両者の存在を受け入れ、受け入れられる。
ポタポタと溶け出したその一滴が、わたしの固定観念を侵食していく。
生きたまま鹿が搬入されてきて以来、どう鹿と向き合うかを考えてきた。
だが、向き合うことだけが正解ではないかもしれない。
対面し境界線を引いた上で関わろうとするのではなく、境界線を溶かす。
「溶け合う」
そんな関わり方も間違いではないだろう。
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捌く捌かれるというたった一つの共通点から、互いの境界を溶かしていく。
たくさんのもも肉がフックで吊るされている冷蔵庫は、薄暗い。
ゴーーッと冷風を送る音が響く。
少し汗が冷えてきた。
オスは122kgの鹿で、わたしは人間のメスだった。
解体しているときに感じた、わたしは人間のメスなのだという感覚は、大阪では決して味わえなかった。
思えば、大阪で生まれ大阪で育ったわたしは、ずいぶん遠くまで来たみたいだ。
これからどんなことが起こっても、わたしは目の前の事象を噛み砕き、口の中で溶かしていくのだろう。
なんとなく、自分は大丈夫だという変な自信が湧いてきた。
冷蔵庫の外では、たくさんの鹿がわたしを待っている。
もう、疲労感はなかった。
わたしは勢いよく、冷蔵庫のドアを開けた。
続くー