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ジビエの世界

鹿はいつから神様になったのか?

こんにちは、

鹿に魅せられて大学でサークルまで立ち上げてしまった、あかりんご(@akaringo252588)です!

皆さん、日本では鹿が神様として崇められていたのをご存知ですか?

その歴史は長く、弥生時代から鹿を神様としていた歴史があります。

そこで今回は、鹿はいつから神様になったのか?ということでお話していきたいと思います。

当時から存在していたイノシシではなく、なぜ鹿だったのかということも触れていくので、最後まで読んでいただけると嬉しいです!

今回のキーワード
  • 神鹿(しんろく):神の使いとして考えられた鹿。
  • 卜骨(ぼっこつ):動物の骨などを焼いて、その割れ方で運勢を占う方法。
  • トーテム:その部族と特別の関係にあると信じられる動植物のこと。

古代はトーテムとして鹿が認識される

まずは、縄文時代から弥生時代にかけて鹿がどのように扱われていたのかについて見ていきます。

縄文時代はイノシシやクマが信仰対象

縄文時代の人々は、皆さんが想像するように狩猟・採集によって食べ物を得ていました。

鹿は肉資源としても重要でしたが、その他にもたくさんの資源をもたらします。

例えば柔らかい毛皮は衣類に、角は釣り針や魚を刺すためのモリに、骨は石器づくりのハンマーに…といった具合です。

しかしこの頃、粘土で作られた土器や土偶の中に、鹿の姿はありませんでした。

一方で、同年代にイノシシクマの動物像は出土しています。

これはイノシシやクマが何らかの信仰の対象にあった可能性があることを示しています。

当時はヒトにとってイノシシも鹿も重要な狩猟の対象でした。

しかしイノシシだけが神様として信じられていたのはなぜでしょうか?

これは、日本列島に鹿をトーテムとする人々が未だ渡来していなかったからだと、考えられています。

ここでトーテムとはその部族などと特別の関係にあると信じられる動植物のことを指します。

縄文時代の日本では鹿をトーテムとする人々がいなかったため、鹿は単なる狩猟対象に留まっていたのです。

農業のスタートで動物への認識が一変

時は流れ弥生時代、日本人は狩猟・採集生活から農耕の道を歩み始めます。

ここから、土器や青銅器に鹿のモチーフが見られるようになります。

これにより日本人が農耕民族になっていく過程で、鹿が信仰の対象になっていったということです。

なぜでしょうか?

それは、中国や朝鮮周辺で鹿をトーテムとして信仰する部族が、稲作とともに日本へ入ってきたからだと考えられています。

トーテムとしての鹿がなぜ受け入れられたのか?

しかし稲作とともに鹿を信仰する文化が入ってきても、それが日本に受け入れられた理由があるはずです。

ここからは私が理由として考える2つの理由について紹介します。

一つ目に挙げられるのは、稲作の特徴です。

年中行うことができる狩猟とは対照的に、稲作にはサイクルがあります。

春に種をまき発芽して、秋に収穫するというものです。

実は鹿の角も、これと似たサイクルを持っています。

春に角が生え始め、秋に立派な角となって繁殖期を終えると抜け落ちるのです。

このように鹿の角は稲作のサイクルを想起させ、それが豊作を願う気持ち、そして信仰心へと繋がったのではないかと考えられます。

二つ目に挙げられるのは、農業被害です。

イノシシと鹿は今でも農作物や田畑を荒らし農家さんを悩ませていますが、それは農耕が始まった弥生時代でも同じことでした。

ただ動物が田んぼに入った時、イノシシは稲をなぎ倒してめちゃくちゃにするのに対し、鹿は稲をちょこっと食べるだけでした。

よってイノシシへの害獣の意識が高まったため、鹿を信仰することになったのではないでしょうか?

神鹿としての鹿の誕生

トーテムとして神様とされた鹿ですが、それが神話として登場したのは弥生時代から少し時間が経ってからでした。

それが書かれた書物が古事記です。

ここでは古事記に書かれた鹿に関わるエピソードを紹介したいと思います。

鹿は神様だと書かれた古事記

前述の通り、鹿をトーテムとした部族の来日により鹿は神様だと信じる部族が日本に根付きました。

しかしそれは未だ局地的だったと考えられます。

では今のように鹿が神様だという認識ができたのはなぜでしょう?

それは、鹿は神様の使いだということが『古事記』に明文化されたのが大きな要因であると私は考えています。

古事記とは、712年に太安万侶が筆録して献上した国土統治の由来を語る日本最古の書物です。

同じ頃に書かれた歴史書として外国向けに書かれた『日本書紀』が挙げられますが、古事記は天皇による国土の支配や皇位継承の正当性を日本国民に示すものでした。

古事記と神鹿

ここで、古事記に書かれている神鹿のエピソードを見ていきましょう。

前提として、古事記の世界は神様の世界である高天原と地上に分かれています。

高天原のアマテラスという神様は、ある日思いました。

オオクニヌシという神様によって治められていた地上の国を自分の子孫が治めるべきではないか?

そこでアマテラスはオオクニヌシに国を譲るように伝えるため、使者を送ることにします。

何度も使者を送るアマテラスでしたが、不思議なことに使者はオオクニヌシに寝返ってしまいます。

三度目の正直としてアマテラスが選んだ神様は、タケミカヅチ。

しかしオオクニヌシは川の上流に住んでいたため、彼らのもとに辿り着くには激しい水の流れにも険しい崖にも対処できる力が必要でした。

そこで、我こそはと手を挙げたのが鹿の神アメノカクです。

アメノカクは素晴らしい脚力で崖をかけ上がり、タケミカヅチをオオクニヌシのもとへ送り届けました。

最終的にタケミカヅチは無事、オオクニヌシに国を譲ってもらう約束ができました。

タケミカヅチはこの功績が称えられ、茨城県の鹿島神社に祀られることになります。

そしてこの後、奈良の都が創建される時に春日大社に招かれたのです。

招かれた際にタケミカヅチが乗っていたのが、白い鹿でした。

このエピソードより鹿島神社と春日大社では、鹿が神様の使いとして祀られるようになったのです。

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藤原氏や物部氏…鹿を保護した権力者たち

タケミカヅチは春日大社に招かれる前、鹿島神社にいたと古事記では書かれています。

鹿島神社と深い関わりのある権力者といえば、物部氏です。

物部氏は、何と鹿島神社で鹿を飼っていたのです。

このことから、物部氏は鹿をトーテムとした渡来人の一族であったと考えられています。

また古事記が書かれた時代には、日本有数の強大な氏族である藤原氏が繁栄していました。

実はこの藤原氏が春日大社を建設したと言われています。

春日大社は古事記に出てくるタケミカヅチを祀っており、春日大社が建設されてからは鹿を保護するようになりました。

実は藤原氏がこのように鹿を神様として信仰するようになったのは、藤原氏の先祖である中臣鎌足が影響しています。

あかりんご

中臣鎌足!?あの有名な人ですよね!?

中臣鎌足は鹿島神社で神宮を務めた家系の出身者。

つまり、彼ら一族は鹿の骨を使った卜骨(ぼっこつ)で運勢を占っていました。

卜骨(ぼっこつ)とは、動物の骨などを焼いて、その割れ方で運勢を占う方法です。

鹿に対して精霊的なパワーを感じていた一族だからこそ春日大社に建設、そして鹿の保護に尽力したのではないでしょうか。

このように、鹿が神様だという認識が広まった原因となったのは以下の2つと考えられます。

  1. 鹿は神様の使いであるという『古事記』の発表
  2. 鹿を信仰する権力者の繁栄
今回のまとめ
  • 弥生時代に入り、鹿をトーテムとする人々が稲作とともに渡来し、土偶や青銅器のモチーフとなった。
  • 『古事記』には鹿が神様の使いとして描かれている。
  • 当時の権力者である藤原氏、物部氏はそれぞれ鹿を宗教の信仰対象としており鹿島神社や春日大社で鹿を飼っていた。

意外と根深い鹿と日本人の歴史

鹿への信仰はもともと日本で生まれたものではなく、渡来人によってもたらされたという点がとても興味深かいですね。

そして稲作が始まったことで、今まで信仰されていたイノシシは害獣としての認識が高まっていったのではないかと考えると面白かったです。

こうして見ると、やはり歴史や人々の認識というものは権力者が深く関わっているのだなと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

ABOUT ME
あかりんご
鹿肉専門のキッチンカーSHIKASHIKA店長。神戸大学で畜産を学び牛飼いを志すも「日本で持続可能な肉とは?」という問いをきっかけに、鹿肉と出会う。鹿肉を日本の肉文化に、をビジョンに掲げ、美味しい鹿肉料理を日々提供していたが、より美味しい鹿肉を求めて現在は北海道で鹿を捌いている。