大学を卒業し鹿肉で起業した24歳のあかりんご。ひょんなことから北海道の鹿解体施設で鹿を捌きまくることになり、大阪から単身で北海道へ。彼女は一体、北海道で何を思う…。
前回のあらすじ:生きたままの鹿が息絶える瞬間を目の当たりにした、あかりんご。身の引き締まる思いで臨んだ解体で、ハプニングは起こる…。
求められる解体スキル
わたしは北海道の鹿解体所に務めている。
当然、技術を日々研磨するわけだが…求められるスキルは鹿の解体所によって異なる。
- 毛皮を傷つけないように剥ぐ。
- 丁寧に時間をかけて肉を傷つけることなく摘出する。
- 1頭あたりの時間をできるだけかけずに多頭を捌く。
もちろん全部できることを目指すべきだ。
だが、優先順位をつけなければいけない時がある。
わたしが所属している解体所では、スピードが最優先事項だ。
なぜなら、搬入頭数が桁違いに多いからだ。
ここでは、1日20頭の鹿が搬入されてくる。
本州では1日5頭でも多い方だ。
テンポ良く捌かなければ、時間内に鹿を捌ききれない。
捌ききれなかった個体は、まるまる廃棄になってしまう。
よって、1頭をいかに素早くきれいに捌くかがポイントだ。
ちなみに、わたしの今のタイムは40分。
まだまだだね、目指すは30分!
最終ゴールは20分!
イエッサー!!!
傾向と対策
さて、どうしようか。
わたしは考えた。
あと10分も短縮しなければいけない。
傾向と対策。
現在地と目的地。
成長の基本情報である。
今のタイムを記録しないことには始まらない。
わたしはA4のコピー用紙をとってきて、ラインを引いた。
シャッ、シャッ
前足、内臓、もも肉と左端に書く。
皮剥ぎから前足を取るまで、そこから内臓を取るまで、そこからもも肉を取るまで…。
それぞれのタイムを記録し、タイムロスの原因を探るのだ。
午前中の搬入は12頭。
解体にも慣れてきたわたしは、解体の先生から課された課題に向けてナイフをふるっていた。
早く、早く…
1頭目は39kgのメス。
テンポ良く捌き、31分で工程を終えた。
まずまず。
2頭目は48kgのメス。
こちらも少し時間はかかったものの、36分で捌いた。
3頭目は45kgのオス。
29分。30分を切ることができた!
タイムロスの原因は、前後の足の先を外す時や、皮を剥ぐ時にあるみたいだ。
関節が見つからなかったり、引っ張ってもスムーズに皮が剥げない時、時間がかかってしまう。
急ぐより、ちゃんと正確にナイフを入れることが重要だな…
少ない時間でパパッと分析を終え、ナイフを洗う。
わたしは4頭目に差し掛かった。
「やった…!」
1頭30分ペースでさばいているから、解体を始めて約2時間後。
ちょうど集中も切れてきた頃。
ここからは、おしゃべりをしながら進めることもある。
例にもれず、雑談をしながら鹿の足の先を外していた。
ちょうどその時。
鹿の左足の先を外す。
関節にナイフが入り、うまく外れた。
鹿の右足の先を外す。
関節部分の筋を切り、捻ってパチパチと関節を折る。
最後に残ったスジを切るのだが…
スパッ!!
あら?
かかっていた圧力が一気に逃げた。
どこいった??
左手を見る。
ビニール手袋が一部破けている。
そこから、赤い液体がたらりとのぞいた。
あ…出てきてはいけないものが出てきている。
やってしまった。
一瞬何が起こったかわからなかったけれど、緊急事態なのは確かだ。
今まで世間話をしていた先生と目が合う。
やった…!!
やった?20分達成?
先生も最初は何が起こったのか、分からなかったようだ。
やったわ…!!
?………!!!!
先生が作業の手を止めて近くに駆け寄ってきてくれた。
服の裾をまくり上げ、傷の状態を確認してもらう。
ワオ!すごく血が出ている!
血だ!血だ!
わたしはパニックになってしまった。
やばい血が出ている、痛い痛くない。
痛くないけど血が出てるやばい。
先生は冷静に、私の手を持って背中を向けた。
わたしに傷口を見せないようにしながら、水で傷口を洗い流してくれている。
ちょっと傷口を開くよ〜ん
イヤダァアアアアア!!!
掛け声とともに、傷口に水の感触を感じた。
めちゃくちゃ傷を開かれている。
ややパニックになっていたのもあるが、傷口に水を当てるとやはり痛い。
痛いって!先生!まじ痛いって!
気付いたらわたしは先生をボコボコ殴っていたが、先生はお構いなく続ける。
こうやって水を当てないとばい菌が入ってしまったりするのだ。
もうちょっとで痛くなくなるからね〜
嘘だぁあ!!!
嫌だぁあああああああ!!!
解体所にはわたしの叫びが虚しく響いていた。
病院で縫い縫い or NOT
しばらく洗い流すと本当に痛みはなくなっていった。
アドレナリンが出ると一時的に痛みは感じなくなるみたいだ。
先生はティッシュで私の傷を押さえる。
はい、手高く上げて〜。
ぷちょへんざ
いえ〜い!!
…じゃないんですYO!!(息切れ)
はいはい、息ちゃんとはいて。
人間、はいたら吸うようにできてんだから。
ふぅううう、すんーーー
休憩室に座らされる。
つきっぱなしのテレビでは朝ドラの感動的なシーンが流れていた。
たらら〜とゆっくりした曲調の音楽がお茶の間の涙を誘う。
が、お構いなしに、わたしは先生に問う。
どないですか、縫わんといけんですか。
ぱっくりいってます?
縫わんといけんですか。
縫い縫い!? or NOT!?
どげんかせんといかんですか!!
わたしは注射が大の苦手だ。
ましてや傷口を縫うなど、未知の世界で恐ろしかった。
こんくらい大丈夫や。
気になるんやったら病院行きな。
ふああ、良かったぁ
ティッシュで傷口を押さえてもらっている先生に聞いても、傷口が見えないのだから、答えようもない。
中指の付け根がドクン、ドクンと脈を打つのがわかる。
真っ赤に染まったティッシュを5回取り替えた。
アドレナリンパニック
しばらくして血は止まった。
傷が指の先になるにつれて、血は止まりにくくなるらしい。
わたしが切ったのは、中指の付け根。
比較的すぐ血が止まり、後は絆創膏の圧力で止血をすることにした。
関節からは外れた場所に傷があるので、グーパーと指を曲げ伸ばししてみても痛くなる予感は無い。
もう大丈夫そうや。
なんだかいけそうだったので、手袋をして解体の作業に戻った。
床には解体途中の鹿。
まな板には、わたしを切ったナイフが呑気に横たわっている。
しばらくこのナイフとは喧嘩をしなければならないようだ。
痛かったんやからな!と言ってみる。
すると、あんたの使い方が悪いんでしょ、とナイフに言われた気がしたが無視した。
アタイをうまく研げない、あなたが悪いんだからね。
ナイフは追い打ちをかけるように私に言ったけど、図星だったので言い返せなかった。
ふんっ!!!
ちょっと気まずいけど、そんなナイフを使って解体の続きを始める。
そんなわたしに先生が一言。
速さを追求するのはちょっとお休みだね。
ガビーーーン
その通りだ。
ポイントを探しながら、的確にナイフを入れていく方が良い。
力を入れすぎないように、左手がナイフと近くなりすぎないように。
そうやって気をつけながら慎重に捌いていく。
念のためこの作業も時間の記録をつけておく。
足先を外し終わり、ウインチで吊るす。
次は胴体の皮を剥ぐ作業だったが…
なんだか自分の様子がおかしい。
頭で考えていることと違うことをしてしまう。
先生と話す時も、言葉が支離滅裂になる。
集中してるけど、ぼーっとしてるような、変な感覚だ。
アドレナリンだね。
指を切ったパニックが続いてるんだよ。
これが噂の、アドレナリンパニック!!
そんな言葉はないよ。
頭の中を少しでも落ち着けようと、脳が頑張っているから、なんだかおかしなことになるようだ。
ちょっと休憩。
作業場の角に座って、深呼吸をしてみる。
それでもなかなか落ち着かなかった。
休憩室に戻って水を1口飲む。
そこで座っていても暇だったので、先生の解体をぼーっと眺めていた。
鹿の解体で手の指を切った。
でも、もっと鹿を捌きたい。
ナイフの入れ方、もっと上手くなりたい。
そんな思いがふつふつと湧いてきた。
先生はちょうど鹿の内臓を出すところだった。
それを見ていると、私もやりたくなって中腰になっていた。
足に力を入れて立ってみる。
もう大丈夫だ、心はもう落ち着いている。
行ける。
私は鹿の解体を再開した。
手を切った記念日
39kgメス | 48kgメス | 45kgオス | 72kgメス | 54kgメス | |
〜前足 | 14分 | 15分 | 11分 | – | 11分 |
〜内臓 | 7分 | 10分 | 7分 | – | 11分 |
〜もも肉 | 10分 | 11分 | 11分 | – | 12分 |
合計 | 31分 | 36分 | 29分 | 手を切る | 34分 |
今回の怪我が起きた理由をゆっくり考えてみた。
1つ目、しゃべりながら作業を行ったこと。
どうしても手元に注意がいかず力が入りすぎてしまう。
2つ目、ナイフが十分に研がれていない。
ナイフが切れないと、力を入れて切ろうとしてしまう。
よって特定の方向に力がかかりやすく、何かの拍子で滑ると怪我の元になる。
3つ目、動物の構造をよく分かっていない。
どこにスジがあるのか、どこに関節があるのか。
分からなければ、力が定まらない。
いろんな方向に力を入れてしまうので、コントロールが効かない。
ナイフで手を切った後の解体ではスピードを求めず、ポイントにしっかりナイフを入れることを意識した。
すると、そんなにタイムが変わらないことがわかった。
まぁ解体の仕事で手切るのは日常茶飯事よ。
だからそんな落ちついて処置できるんすね…
本当にありがとうございました。
今日は手切った記念日ね。
記念日…?
おめでとうね。
確かに、手を切ったことで新しい気付きがあった。
何かを得るには何かを失わなければいけない。
そんな時もあるのかもしれない。
絆創膏の張り替えをしようと傷を覗いてみた。
これは一生残る鹿との思い出なんだな。
傷をよく見てみる。
真っ直ぐだが両端が少し湾曲している。
まるで、わたしに笑いかけているような傷だった。
じっくり見ると笑った口のように見えてきて、なにやら声が聞こえてきそうだ。
おめでとう〜!はっぴ〜!
僕を生んでくれてありがと〜!
傷口が、わたしそう語りかけてくる気がした。
これからも仲良うたのんます、と心の中で応える。
…まだ、アドレナリンパニックは続いてるみたいだ。
続くー