大学を卒業し鹿肉で起業した24歳のあかりんご。ひょんなことから北海道の鹿解体施設で鹿を捌きまくることになり、大阪から単身で北海道へ。彼女は一体、北海道で何を思う…。
前回のあらすじ:初めての解体を終えたあかりんごは、経験を積むフェーズへ。上達に失敗はつきものだけど、ボスとの解体で、あかりんごは腸を爆発させてしまう…
ボスとわたしと、94kgの鹿
……。
……。
霧立ち込める朝の解体所の空気は重い。
そこには、ボスと、わたしと、1頭の鹿。
では、見させてもらおか。
ヒィッ
いつも優しく教えてくれる先生に代わり、今日はボスと解体するのだ。
ボスは少し離れたところから、わたしの解体をじっと見ている。
ジーーーーー
この時、わたしは初めてを2回経験していた。
まず第一に、ボスにじっと見られながらの解体。
そして第二に、90kg級の鹿の解体である。
鹿はオスで、とにかく大きかった。
足を吊り上げると、見上げるくらい高い。
体重計のメモリは94kgをさした。
わたしの倍くらいあります…
北海道では150kgもざらにおるで
…ココハニホンデスカ?
本州では40~50kgが一般的な鹿の大きさ。
さすが北海道、全くもって規模が違う。
うんとこしょ、どっこいしょ
では、いきます!
緊張してナイフを強く握ると、筋肉がピキッと痛んだ。
解体現場に入って2日経ったけど、もうすでに筋肉痛が来た。
手のひらと肩。
腕と腰もちょっと痛い。
鹿の手先を外そうとするも、初手で関節を見失った。
どこどこどこどこ…
関節をすぐ見つけなければ、ナイフがキリキリ泣いている。
キリキリキリ…
もうちょい下…そう、そこそこ。
ボスのアシストでなんとか関節にナイフが入った。
解体も頭数をこなし一連の流れは頭に入れたけど、まだまだつまずく箇所は多い。
次に鹿を吊り下げ、皮を剥いでいく。
膝が出るくらいまで足の皮を剥いだら、皮の端を持ち下に引き下げる。
いつもはベリッとスムーズに引き下げられるのだが…
んっ、んっ!?
どれだけ引っ張っても、剥けない。
全体重をかけるも、鹿の皮にわたしがぶら下がるだけになってしまった。
ぶらんぶらんぶらん…
……。
それを見たボスはニヤリと笑いながら、こちらに近付いてきた。
ボスは黙って右側の皮を持つ。
これは、2人で引っ張るという意味か!
わたしは左側の皮を持ち、阿吽の呼吸でぐっと引っ張った。
ビリビリビリ!!!!
音をたてながら皮が引き下げられた。
わぁ嬉しい!!!
大きなカブのおじいさんも、抜けた時こんな嬉しかったんかな!
「大きなシカ」という絵本があっても面白そうだ…
狙撃箇所:肩甲骨
ボス、ここのお肉取れますかね?
94kgのオス鹿は、左の肩甲骨を撃ち抜かれていた。
腕の表面は真っ赤に染まり、血のかたまりがプルンプルンと揺れている。
ボスはゆっくりとした口調でわたしに言った。
取れるか取れへんかやない。
どうやったら取れるか考えるんや。
北海道は銃猟がメインで、ほとんどの鹿には銃弾の跡がある。
そしてこの時期の鹿は、有害駆除の鹿である。
有害駆除とは、農作物を守るために鹿の数を減らしましょうという目的の狩猟のこと。
つまりお肉をとる目的ではないので、お腹や肩に弾が当たっている個体も多い。
俺らの仕事は、その鹿から1gでも多くの肉を取ることやで。
それが鹿に対する礼儀やと、俺は思うんや。
ボス…
わたしは包丁を握り直し、撃たれている方の前足を取り出した。
肩甲骨と腕骨の関節を見つけナイフを入れて切り離す。
こうすれば、腕から先のお肉は取ることができる。
小さい工夫を積み上げていけば、もっと肉が取れるようになるのだ。
ボスの言葉に感銘を受けたわたしは、もっと頑張ろうと意気込むのだった。
鹿のフンを頭からかぶる
前足を外し終わり、次は内臓を取り出す。
いつもと同じように、玉付きナイフでサッと切れ目を入れて…
そう思っていた次の瞬間、事件は起こった。
ポーーーーーーン!
破裂音とともに、何かが宙を舞う。
すべてがスローモーションになる。
はっ……
緑色の、液体。
草の混じった、緑色の液体が、弧を描いている。
それは花火のように一瞬の刹那だった。
そして重力に従い、ゆっくりと私のもとへと落ちてくる。
あぁ、来るんだね。
生暖かい液体の感触。
次に芳醇な発酵の香り。
そう、わたしは腸を破いてしまったのだ。
一瞬の出来事だった。
油断していたとか、包丁使いのミスとかではなく、シンプルに、腸を切った。
すでに腸が「こんちゃ〜す!」と顔を出していると知らず、そこを切るぞ!といって切ったのである。
鹿の消化管には、微生物が作り出したガスが溜まっている。
常に圧がかかった状態で吊られているので、ナイフが当たるだけで爆発してしまうのだ。
ヌッハッハッハッハッ
ボスが大笑いしている。
こんないい笑顔、見たことないぞ。
とりあえず顔を洗って、フンをあらかた落とす。
それにしても…いい香り!!!
初めは鼻につくが、慣れるとクセになってしまう。
鹿や牛などの反芻動物は、胃腸に住む微生物の力で草を分解する。
このフンの中にも、きっとウニョウニョと生き物がいるはずだ。
顕微鏡を持って来れば会えたのになぁ…。
いや、しかしこれは反省案件だ。
もも肉や腹腔にフンがついてしまうということは、品質低下に他ならない。
ヌッ
気持ちを入れ替えて、わたしは解体を続けた。
解体のお仕事って?
その日の搬入頭数は少なく、すぐに解体が終わった。
ボス、解体終わりました!
次の作業に移ります!
解体のお仕事…と言っても仕事は解体だけではない。
ざっくりと、以下のような仕事がある。
- 解体
- 内臓処理
- 精肉・除脂
- ゴミの廃棄
- 解体の記録
- 出荷作業
- 掃除
内臓処理とは、解体でとった肝臓や肺、心臓、気管などを丁寧に洗う作業である。
洗うのは表面だけでなく、内部も血抜きをする。
どの臓器も見るに美しいが、肺は特に生命の神秘を感じる。
94kgの鹿の肺は抱えて持つくらいの大きさで、でもめちゃくちゃ軽い。
精肉とは、もも肉やウデ肉から骨を外し、さらに細かい部位へと分けていく作業。
脂がついていたら、その都度除去する。
解体が終わったらメインの作業はこれ。
あとは解体、精肉などの過程で出たゴミを処理したり、解体した鹿の記録をとったり、床やまな板、肉を入れる容器の掃除をしたり、出荷のために肉を箱詰めしたり…。
解体のお仕事、といっても色々あるのだ。
頑張って覚えていってな。
ほな、今日はお疲れさん。
はい!
帰り道、いつもの道を走る。
スンッ、スンッ
なんだかいい香りがするので嗅いでみたが、香りの所在は分からない。
ん…?どこから香ってるんや
スンッ、スンッ
あっ…
腸を破いた時は、そのフンの粒子が鼻の中までお越しになるらしい。
だから顔を洗っても、服を洗ってもふと芳醇な香りがするのだとか。
そこでしたか
フフッと微笑みながら、車を飛ばす。
鹿に対する礼儀、か。
ボスの言葉を反芻する。
解体の奥深さに気付いた今日がもうすぐ終わる。
そして明日は、明日の鹿が来る。
続くー