大学で鹿の研究をしている、あかりんご(@akaringo252588)です!
突然ですが、このグラフを見てみてください。
環境省が発表する鹿の個体数の推定は、ここ30年で約8倍に増加しています。
その数は、2015年に289万頭となりピークを迎えました。
つまり数十年前と比べると、鹿は増えすぎているのです。
ですが実は、鹿は一昔前まで…
絶滅危機にあったんです!
そこで今回は鹿の頭数の移り変わりについてお話ししたいと思います。
- 獣肉:イノシシや鹿などの野生動物の肉。
- 乱獲:動物や魚をやたらに獲ること。
鹿の増えすぎと農作物被害
先ほども説明したデータでは、2018年の鹿の頭数は189万頭となっています。
2015年以降は捕獲数の増加もあり個体数の推定は減少していますが、高い水準で推移しています。
では鹿の増えすぎが、どんな問題を引き起こしているのかと言うと…
ひとつ挙げられるのは、農作物被害です。
これは農家さんが育てている野菜を、鹿が食べてしまうものです。
食べられた分は出荷ができず、農家さんにとっては損失となります。
これを全国的に調べると、農作物被害額は158億円にのぼると考えられています。
鹿の数は増減の繰り返し
実のところ、鹿は絶滅の危機にありました。
江戸時代から鹿の頭数変化を簡単に表すと、このようになります。
鹿の頭数は江戸時代に多く、明治から激減していますね。
そして近年になって再び増加したという流れになっています。
それでは、それぞれの時代背景について見ていきましょう。
獣害で鉄砲が許された江戸時代
鹿の頭数が非常に多かったとされる江戸時代。
その証拠に、田畑の6割を動物に荒らされた、獣害で年貢の支払いができなくなったなどの報告が残っています。
半分以上もの面積を荒らされたというのは、相当なものです…。
よって農民は、鹿などの駆除を目的とした鉄砲の使用を藩に許されたのです。
面白いことに、江戸時代には武士より農民の方がたくさんの銃を持っていたと言われています。
また、現在では有害駆除の報奨金として、鹿やイノシシを捕獲するとお金がもらえる制度があります。
実はこれ、江戸時代にもあったんです。
兵庫県丹波市柏原町上小倉に伝わる古文書「倹約定書」では、次ような内容の記述があったそうです。
正月から9日までの間に、3年子以上のイノシシを捕らえると、1頭当たり銀15匁(約2万5千円)、2年子なら銀5匁(約8千円)、1年子なら銀2匁(約3300円)を褒美として与えるとしている。また、シカについては、年齢にかかわらず1頭当たり銀5匁としている。
丹波新聞「イノシシやシカ捕らえて”褒美” 獣害は昔から… 江戸期の古文書に「定め」記述」より
どれだけ獣害が深刻であったかが、これにより想像できますね。
このように鹿の捕獲が進んだからか、鹿肉を食べる文化も江戸時代から広がり始めました。
江戸時代後期の儒学者である羽倉簡堂の『饌書』にこうした記述があります。
鹿肉は美味で胸肉が最も美味しく、後肢(後ろ足)がそれに次ぐ。
鹿肉の部位ごとに食べ比べたのでしょうか?
この記述から、鹿肉の色々な部位を食べられる環境があったことが分かります。
また江戸の町では「ももんじ屋」が生まれます。
ここでは鹿肉やイノシシ肉などが販売されました。
ここでは隠語を使って肉がやり取りされ、江戸っ子にとってご馳走となりました。
なぜ隠語を使っていたのかは、こちらの記事をご覧ください!
乱獲で激減した明治時代
明治時代には、肉食が推奨されました。
江戸時代まで続いた、肉食を禁止する命令が解除されたのです。
これにより鹿肉やイノシシ肉の時代は終わります。
代わりに牛肉、豚肉、鶏肉といった家畜のお肉が主流になっていったのです。
ただ明治時代の狩猟により、鹿の頭数は激減し絶滅寸前となります。
つまり、鹿の乱獲が行われたのです。
実はこの頃、猟銃の解禁や、山間地域の集落での人口増加が起こりました。
資源が必要になった人々は皮・肉・角を目当てに乱獲とも言える狩猟を行ったのです。
また明治時代初期の北海道では開拓・入植が進みました。
そこで、北海道に住むエゾジカは産業資源として位置づけられます。
肉を缶詰にして輸出したり、毛皮を販売するために北海道でも大乱獲が行われたのです。
これにより、エゾジカは短期間で絶滅に近いレベルまで追い込まれました。
鹿の保護政策が始まる
鹿の激減を受け、政府は鹿の保護政策を実施します。
1892年には禁猟期間ができました。
それまで年中猟が可能でしたが、3月から10月まで猟をしてはいけないということになったのです。
そして次に、小鹿とメス鹿の捕獲が禁止されました。
北海道、岩手、神奈川などでは一定期間、猟を禁止したところもありました。
このように、1940年代から90年代にかけて、狩猟を制限するような鹿の保護政策が続きました。
ですが鹿は多くの地域で1980年代から増加し始め、2000年代に急増します。
これは鹿の保護政策と、拡大造林が原因として挙げられます。
拡大造林は、木材需要に伴い人工林の面積を増やすことです。
これは1950年ごろから始まりました。
これによって一度木が切られると、木が成長するまでの間、そこには草や低木が生えます。
これにより鹿のエサが増え、数が増え始めたというのです。
一方で、政府は鹿の乱獲の歴史を繰り返すまいと、狩猟規制の緩和には慎重でした。
その期間にも鹿はどんどん増え始め、今に至ったと考えられます。
増えやすく減りやすい鹿
鹿は増えすぎていると言いますが、昔は絶滅の危機にあるくらい数が少なかったんですね。
再び乱獲が行われないようにと、今でも猟期は秋から冬のみに限定されています。
鹿は増えやすくて減りやすい。
だからこそ頭数管理が難しいのですが、縄文時代から続いてきた鹿と日本人との関係を、後世にも残していきたいですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
- 鹿の頭数は江戸時代までは多く、獣害が深刻だった。
- 明治時代は山間集落での人口増加、森林の開拓などにより鹿が乱獲され、その数が激減した。
- 乱獲を二度と起こさないように政府は狩猟に制限を設けた。