こんにちは!
ジビエライターのあかりんご(@akaringo252588)です!
突然ですが、鹿肉やイノシシ肉のことを別名でなんというか知っていますか?
正解は、それぞれ、紅葉(もみじ)と牡丹(ぼたん)です。
実はこれら、表では本当の意味が分からないように使われていた隠語。
これらの隠語はいつできたのか。
なぜ隠語を使わなければならなかったのか。
今回は、そんな隠語が生まれる背景となった歴史について紹介します。
鹿肉は紅葉(もみじ)、イノシシ肉は牡丹(ぼたん)
イノシシや鹿に限らず、鶏肉はかしわ、馬肉は桜という別名があります。
このように日本では古くから食肉の別名があるのです。
その言葉の多くは、今でも使われています。
例えば、イノシシ肉を薄切りにして野菜と一緒に味噌で煮込む料理はぼたん鍋です。
植物や花の名前に例える例が多いですが、実はイノシシは山鯨(やまくじら)という別名も持っています。
なぜイノシシと呼ばず、牡丹や山の鯨のようにわかりにくい名前で読んでいたのでしょうか?
隠語を生んだ日本の歴史
紅葉や牡丹などの隠語が生まれた原因は、江戸時代に発令されたとある法令です。
そこに至るまでの日本の肉食文化について、見ていきましょう。
縄文人の狩猟は8割が鹿とイノシシ
もともと日本では縄文時代から弥生時代にかけては狩猟や木の実の採取により食べ物を確保してきました。
その頃の日本列島では、マンモスやバイソンなどの大型動物が絶滅し、鹿やイノシシなどの中型生物が大繁殖します。
よって狩猟の対象も、ほとんど鹿やイノシシになっていきます。
その証拠に、縄文時代の遺跡から出土した骨のうち、総計で77%が鹿とイノシシのものという結果が出ています。
このように、日本人は鹿とイノシシを貴重なタンパク源として食べていたのです。
家畜を食べることが禁止された飛鳥時代
縄文時代以降は、牛、馬、鶏が家畜として導入されていきました。
これらの動物は、今でも日常的に食べられている動物ですね。
ですが、675年に天武天皇が発令した法令によって、食べることが禁止されてしまいます。
それが、「肉食禁止令」です。
法令が出された原因は、聖徳太子が制定した「憲法十七条」です。
仏教をベースとした法律であるため、不殺生という考え方を守らなければならなくなりました。
ちなみに、不殺生とは、生きているものを殺すと必ず仏から罰を受けるという考えのことです。
ここでは牛、馬、サル、犬、鶏を食べることが禁止されました。
あれ、鹿やイノシシは入っていないね!
狩猟対象の鹿やイノシシについては、禁止されておらず、食べることができました。
ご馳走だった鹿肉料理
牛や鶏の肉が禁止されたため、鹿やイノシシ肉の価値は上がっていきます。
平安時代になると、貴族の間でジビエが流行しました。
平安・奈良時代の国家制度を記録した『延喜式』という書物では、鹿やイノシシなどが特産物として全国から集められたという記述が残っています。
また、天皇の長寿のために1月に行われていた歯固の膳というイベントでは、鹿肉とイノシシ肉が必ず用意されました。
(※猪宍・鹿宍はイノシシの肉・鹿の肉の意味)
お祭りごとには、鹿肉とイノシシ肉が欠かせないほど、天皇や貴族にとってはご馳走だったのです。
武士が好んだ山の幸
鎌倉時代に入り、武士は武道の練習として狩猟を好みます。
それに伴い、武士たちは狩猟で得た肉を食べて健康的な生活を送っていました。
この頃、武士にとって狩猟は自分たちの力を大衆に見せつける手段でもありました。
その証拠に源頼朝は富士山麓で大規模な巻狩りを行い公家たちを震撼させ、政治の主導権を握ったとも言われています。
「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」
江戸時代になり5代将軍の徳川綱吉は「生類憐みの令」を発令します。
これによりさらに殺生が厳しく禁止されました。
しかし、実際には、建前上のこととなりシカ肉は盛んに食べられました。
庶民は宗教には無頓着な様子で肉を食べたそうです。
そして武家や公家は肉を薬だと言い張り、建前上は宗教を守っているように見せていました。
このような、くすり喰いと呼ばれる行為は、オランダ医学に影響を受けたと考えられます。
当時日本に輸入されたオランダ医学から、獣肉を食べていないから日本人は虚弱なのだという認識が広まったのです。
こうして江戸の町では「ももんじ屋」という肉屋が「紅葉」という隠語で公然と売られるようになりました。
江戸中期の儒学者である荻生徂徠が残した記述にこのようなものがあります。
吾邦(わがくに)似て大牢(たいろう)といへるは、大鹿、子鹿、猪なり。
(訳:我が国における立派なご馳走とは、大きい鹿、子供の鹿、そしてイノシシである。)
このように、江戸町民が大好きだった食べ物は鹿肉と猪肉だったと言われています。
ちなみに、当時、鹿肉はすき焼き風の鍋料理が人気だったそうですね。
なぜ紅葉(もみじ)と牡丹(ぼたん)だったのか?
ではなぜ鹿は紅葉(もみじ)、イノシシは牡丹(ぼたん)なのでしょう?
諸説ありますが、今回はその中でも私が有力だと考えている一説をご紹介したいと思います。
鹿と紅葉(もみじ)
鹿が紅葉と呼ばれるようになったのは、花札が由来だとされています。
花札は安土・桃山時代の「天正かるた」が元となり、江戸中期には現在の花札が生まれました。
花札はカードに描かれた絵柄を組み合わせて出来役を作るゲームです。
この絵柄カードは12つに分類でき、それぞれ一年を構成する月々の風物が描かれています。
例えば1月なら松に鶴、3月なら桜に幕といった感じです。
そして花札の10月の絵柄に描かれているのが紅葉に鹿なのです。
ちなみに、この絵柄に描かれている鹿はそっぽを向いています。
実は、このことから無視するなどの意味を持つ「鹿10」→「シカト」が生まれたのです。(現代語っぽいですが、結構昔から使われている言葉みたいですね!)
イノシシと牡丹(ぼたん)
また、イノシシ肉の別名である牡丹は「唐獅子牡丹図」という絵に由来していると言われています。
この絵は金地に群青と緑青の2匹の獅子の姿が躍動的に描かれています。
そして2匹の獅子の横に、立派な赤と白の牡丹が描かれているのです。
獅子と猪は名前が似ていることから、イノシシ肉は牡丹と結びつけられ「牡丹肉」と呼ばれるようになったのではないかと言われています。
また、紅葉(もみじ)の由来となった花札にも7月の絵札としてイノシシは登場します。
しかしここでイノシシと一緒に描かれているのは萩で、牡丹ではありません。
まとめ
狩猟採集時代から鹿やイノシシは日本人にとって重要なタンパク源でした。
仏教が国教となり肉食禁止令が出された後でも、鹿肉は法令外であったため貴族や天皇に愛されてきました。
しかし江戸時代に殺生そのものを禁止する「生類憐みの令」が下されます。
何とか肉を食べたい武家や公家は、肉は薬だとして肉を食べます。
このような「くすり喰い」の文化が生まれ、肉を薬として売り出す、ももんじ屋ができました。
ここで売られていたのは肉ではなく薬という建前なので、そこで使われた商品名は「紅葉(もみじ)」や「牡丹(ぼたん)」となった訳ですね。
それが今でも使われているというのは、何だかとても歴史を感じることだと思います。
このように鹿肉、イノシシ肉は昔から日本人に親しまれてきました。
しかし今では牛や豚に置き換わり、これらは食べ慣れないものとして敬遠されるようになりました。
現在は、需要がないという理由(その他、課題は多々ある)から、捕獲された野生動物の多くが食肉とならずに処分されているのが現状です。
捕獲した資源を有効活用するためにも、親しみを持って鹿やイノシシの肉を食べる人が増えればと願っております。
この記事を読んで紅葉肉や牡丹肉に少しでも親しみを持っていただければ幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!